第6話 苫小牧へ お別れ

支笏湖での2日目。I君は札幌に戻り、Kさんももう本州へ帰るために小樽へ向かわなければならない。今日でお別れである。最後に、支笏湖から少し札幌方面に向かった峠(小樽からここへ来る途中に越えた峠)があり、その峠からすこし分岐を行くと、オコタンペ湖という秘湖がある。そこへ行こうとI君が言った。
 オコタンペ湖は北海道3大秘湖のひとつであり、風景が美しいことで有名である。でも、この「秘」というひっそりと、人知れず存在しているようなイメージがありながら、「3大」という有名なのかなんなのかわからない名前の矛盾も、浮かれている僕らにはどうでもよかった。とりあえずお別れする前に
3人でその湖を見に行くことにする。

僕はまた支笏湖に戻ってくることになるから、キャンプ道具一式はここに置いていく。小樽からこちらへ来るとき、月明かりのなか恐る恐る下った道をもう一度上る。前回下ったときは長く傾斜がきつい峠だと思っていたけど、明るいときに走ると、美しい森の中をゆるゆると上る美しい峠道だった。時折木々の間から見える支笏湖と、その向こうに見える樽前山が自分たちが標高を稼いでいることを教えてくれる。

僕は荷物を積んでいないので、すいすいと真っ先に上ってしまう。しばらく道の脇に腰を下ろして後の2人を待つことにする。自動車が時折通るものの、峠は静かで、もう9月を迎える北海道は秋の気配がする。ゆるい風にゆられる白樺の木の葉っぱは上のほうが黄色くなりかけている。



バイクを置いて遊んでいる間にI君が追い越した。なぜか必死で追いかける僕と逃げるI君

 

峠から分岐を折れてさらに上った先に、オコタンペ湖は森の中にひっそり佇んでいた。はるか下に見えるその湖は、水が見事に青く、針葉樹の中に何者にも汚されなく存在しているようにみえる。遠くに見える対岸はアシのような植物の群生が出来ている。なるほど、まさしく絵に描いたような「秘湖」だ。

「湖岸へ降りてみようか」I君が言った。彼は湖岸へ降りる道を知っているみたいだった。展望台の脇からするすると下ると湖の湖岸へ出た。透明度が高く、栄養分が少ないため微生物が少ないせいだろうか、はるか昔に沈んだであろう大木が朽ちずに水面下で横たわっている。でも、景色としては展望台から見たほうがきれいだと思った。しばらくすると、上の展望台の方から人の声がした。観光客だった。たぶん初老の人たちだろう、女性の声が聞こえる。僕はふざけて「アオーー!」とオオカミの鳴きまねをしてみた。すると、上のほうで一緒に「アオー」とまねをして、しばらくして「オオカミ?」と話しているのが聞こえた。それから上では会話が少なくなり、静かになってしまった。まさか信じてしまったのだろうか。帰ってから「オオカミの声を聞いた」なんて自慢しなければいいが・・・。

僕らも湖を離れ、もと来た峠に戻ってきた。ここで僕らはお別れとなる。I君とKさんは札幌方面、僕は支笏湖方面に戻ることになる。僕たちはここでお別れをし、また連絡を取り合うことを約束した。Kさんは手話でなにか僕に言っていた。どうやら「また会おうね」という意味らしかった。

僕は二人に手を振り、支笏湖方面へ下り始めた。今度は一人きりだ。すると、なぜだか身体が軽くなり、風景が違って見えた。より景色が鮮明になり、色が鮮やかになり、風の音や木の葉の揺れる音、アスファルトとタイヤのノイズ、横を通り過ぎる自動車の音、すべてがより鮮明に、より細かく感じられた。そしていまさらながら支笏湖の美しさ、樽前山の雄大さに圧倒され、感動した。もう何度も見てきた景色なのに。
 自然が大きくなった、というよりも、僕の身体が
3人でいたときよりも、小さくなったような気がした。いまはじめて心から北海道に来たことを実感した。





オコタンペ湖。水が異様に青い。


 
 キャンプ場にもどると、テントが朝出発したときのまま置いてあった。テントサイトはやけに静かで、湖からの小さなジャ、ジャ、という波の音がいっそう静けさをかもし出す。

「さあ、行こう!これからが本当の旅だ」そう思い、道具を撤収して走り出した。

支笏湖から苫小牧へ向かう道路はまっすぐ一直線に作られている。その道に平行してサイクリング道がある。このサイクリング道は道路から少し離れていて、ときおり森の中にサイクリング道だけの状態になったりする。すごく高い木を見上げながら、うっそうとした森の中を走るのはすこぶる気持ちよかったが、常に心のどこかに「ヒグマ」の恐怖があった。このカーブの先に熊がいたらどうしようか、とか、車道に逃げるにはどうすれば良いか、とか、荷物を棄ててその隙に・・・、など、ヒグマが出てきたときのことばかり考えてしまう。

苫小牧は海沿いなので、ずっとサイクリング道はずっと下り坂だった。地図で見るよりも案外すぐに苫小牧についた。前日に聞いた居酒屋の電話番号に電話した。「なんだ、おれは昨日来ると思ってたのによ。まあ、来いよ」とお店の場所を教えてもらった。



オコタンペ湖の湖畔。水はとても澄んでいた。相変わらずはしゃぐ僕。落ちればいいのに。





 お店は炉ばた焼き風の居酒屋だった。カウンターの向かい側は炭火が設置してあって、魚介類を焼けるようになっている。そこで大将はホッケだのジャガイモだのホタテだのをたくさん焼いてくれた。焼きたてのホッケはぷりぷりで醤油をはじいてしまうほど油が乗っている。ジャガイモもホクホクして本州で食べるそれとはまったく別物だった。僕が目の前の新鮮な北海道の幸に目を輝かせていると、「おい、お前、親に電話したのか、心配しているんじゃねえの、ほらそこに電話があるから使え」と大将が目の前の炭火に目をやりながら言った。大将は厳しいけど心の優しい漁師、という感じだ。

「あんた、なにしてんの」親が言った。声が優しかった。今、居酒屋でおいしいものをご馳走になってことを話すと、もっと頻繁に連絡をよこすように言った。不思議なことに旅をしているときは、家のことなんてほとんど思い出さなかった。これから進む世界のことばかりに気を取られていた。あっけないくらい短い会話で電話を切ってしまった。話すことはいっぱいあるはずなのに。

居酒屋の大将にお礼をいい、お店を出た。お腹もいっぱいになってもう走る気がしない。中途半端な時間なのでこの近くにキャンプすることにする。地図をみてみると、この近くにキャンプ場は無いみたいだ。とりあえず公園でも、ということで海岸に近い港町を走ってみる。防波堤の目の前に小さな寂れた公園があるのを見つけた。



峠。ここでお別れ。最後に記念撮影。

 

公園の隅にテントを張って寛いでいると小学生くらいの男の子3人が近づいてきた。「こんにちは」と挨拶すると、向こうも「こんにちは!」と元気よく挨拶した。近所の公園に変な訪問者が来て興奮したのだろう。どんな話をしたか忘れたが、元気な3人はきゃっきゃっと元気に公園を走り回っていた。

夕方も遅くなって薄暗くなったので3人組は家に帰っていった。僕は軽く晩御飯を食べ、北海道初めての一人の夜を過ごした。静かで、なんだか少し長く感じた。  (つづく)

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