第15話 オホーツク海岸線を北へ 能取湖とサンゴ草 

 

網走湖は静かだった。風がまったく無く、水面が鏡のように滑らかになっている。しかしテントの後ろではけっこう頻繁に自動車の通る音が聞こえる。別に気になるほどではないが。このキャンプ場は網走湖の湖畔と道路との間にある。テントから這い出すと、芝生が朝の露で湿っていた。もう9月になる知床の朝は寒く、フリースがほしくなる。朝ごはんの準備をしているうちにどんどん気温が上がってきた。

テントを撤収し、稚内に向かって漕ぎ出した。道東を走ってきて、知床を越えると、この先稚内まであまり見所が無いみたいだ。釧路湿原から摩周湖、屈斜路湖、カムイワッカと、次々に見所があった道東からはなれると、なんだかこの先は退屈そうに感じる。

網走から伸びる片道2斜線の広い道を走る。この道は網走湖畔を左に見ながら走ることになるが、ふと見ると、もっと湖畔に近いところによく整備されたサイクリング道があるのを見つけた。



能取湖のサイクリング道。よく整備されていてセンターラインまで引いてある。

ところが、サイクリング道に入りたいのだが、入り口が見つからない。前を見ても着た道を振り返っても、ず〜〜と見える限りガードレールにがっちりガードされている。隙が無い。とりあえず来た道を戻り、ようやくサイクリング道の入り口を見つけることが出来た。この道はとてもきれいに整備されていて、非常に走りやすい。しかもしっかりセンターラインまで引いてある。そんなに交通量が多いと思わないのだが。それでも、天気もよく、気持ちよく自転車を走らせていると、前から大人数の集団がランニングしてきた。どうやらどこかの学校の運動部の練習みたいだった。しかも女の子ばっかり。体操着で明るく軽快にこちらにランニングしてくる姿は僕には輝いて見えた。それに比べて僕はまともな風呂に数日間入らず、身体を洗っていない。昨日も風呂に入っていないし、服も着替えていない。こんな僕が若い女の子の半径5m以内に近づくだけでも犯罪のような気がしてしまう。

思わず引き返して逃げようか、とも考えたが、それもどうかと思い、少し広い待避所に自転車を止めて彼女たちが走りすぎるのを待つことくらいしか出来なかった。彼女たちは僕の前を通り過ぎるときに「こんにちはー!」とか、「すみません!」と、元気にはつらつと挨拶してくれる。でも、30人くらいいるので結構時間がかかる。僕は彼女たちとのギャップに少々うろたえ、「あ、わ、え」と、うつむき加減で言葉にならない返事することしか出来なかった。

彼女たちの軍団が通り過ぎてから、ペダルに力を込めてダッシュで駆け抜けた。恥ずかしい。たぶん通り過ぎてから「汚いよね〜」とか、「お風呂入ってないんじゃない」とか話しながら走っているかと思うと、早く姿をくらましたかった。が、ここは北海道。すぐに路地に身を隠すなんてことが出来ず、延々まっすぐ伸びるサイクリング道ではずっと背中を見せることになる。僕は振り返られて目が合うと死にそうになるので前だけを見て走りつづけた。

とりあえず彼女たちが見えなくなるほど先に進んでくると、回りは田園風景になり、丘を越える平和なサイクリング道になった。手前に畑が広がり、その先にオホーツク海が見える。まるで絵に描いたような風景だ。でも一つ不思議なことがある。わざわざこんなところに自転車のためだけにサイクリング道を作ったのだろうか。もしそうであればすばらしいことなのだが、どうやらほとんど利用者がいない、というか、もう網走から1時間くらい走っているのに誰とも会わない。途中国道と交差するところなんてわざわざ立体交差になっていたのだ。どうみても費用対効果からみれば赤字も赤字、大赤字である。ひょっとしたら、鉄道のあとかもしれない。道幅もなんとなく線路のようだ。そうだ、そうに違いない。



サンゴ草。青空とサンゴ草の赤のコントラストが美しい。

もともと鉄道であったであろう道は、まっすぐで美しい景色の中を走るが、とにかく退屈なのである。暇なのでいろんな事を考えながら走る。ある大きな丘を越えて下ったところで、先ほどの疑問が解けた。

ちょうど丘を下りたところに能取湖(のとろこ)という湖があり、サンゴ草で有名である。サンゴ草とは、水辺に生える珊瑚のように赤い植物である。(それぐらいしか知りません)それが群落で生えていると辺りを赤い絨毯で敷き詰めたようになり、とても美しい。その群落地に着くところでサイクリング道の脇に駅のようなものが出現した。やっぱりこの道は線路だったんだ。その少し先の公園にはSLが展示してある。

自転車を置いてサンゴ草の群落地に行ってみる。なるほど、その名の通りサンゴ草だ。水際に赤く絨毯を敷き詰めたようだ。遠くの汽水湖と空と赤のコントラストが美しい。ふむふむ、と何枚か写真をとってここを後にした。美しいといえば美しいが、もう北海道の景色になれてしまっている僕は、あまり感動しなかった。


まだまだサイクリング道は続く。だ〜れにも会わない。

サイクリング道は能取湖の湖岸を沿うように続いている。平坦でまっすぐで、よく整備されているので何のストレスも無く走れる。すいすいと気持ちよく自転車を走らせていると、ところどころにこの道がかつて線路であったことを示すものを見つけることが出来る。踏み切りの後であったり、線路の標識であったり。時にはそのまま車両が置いてあって、中で宿泊できるようになっているものもある。これはライダーハウスといって、旅人が安価、もしくは無料で宿泊できるようになっている施設である。北海道にはこのような心温まる施設がたくさんあり、すごく旅のしやすい土地である。旅をすること受け入れてくれる寛容さが、僕が北海道のとりこになった理由の一つである。

それでももう9月を迎えた北海道はほとんど旅人がいない。何十キロもあるサイクリング道で出会ったのは、はじめのどこかの運動部の女学生たちと、サイクリング道の脇の草刈をしているおじいさんだけであった。自転車とは一台とも出会わなかった。

この時期に旅をしているのは学生か、風来坊と呼ばれる本物の旅人である。風来坊とは、夏は北海道で昆布の刈り取りやイクラ工場でアルバイトをし、冬になれば沖縄へ渡り、サトウキビ畑やパイナップルの缶詰工場でアルバイトをして生計を立てる、本物の旅人のことである。とくに冬が来るのが早い道東では早い時期に旅人は姿を消す。南に移動するには十勝や大雪の山越えをしなければならないからだ。それを避けるには襟裳岬経由の物凄い遠回りをしなければいけないからだ。だからこの時期のオホーツクは静かで少しさびしいが本当の北海道らしい旅が出来る。

サイクリング道が終わり、また車道を走ることになった。交通量がまばらな広い道になったが、また海岸線の退屈な道になった。この道は大小の町街をつないでいて、いくつもの街を越えた。とりあえず見所も無いのでいけるところまで走って近くの無名のキャンプ場を見つけたので今晩の宿泊地にした。(つづく)


能取湖の湖畔を越えると今度はサロマ湖の湖畔を走る。
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