第12話 知床へ すばらしき朝風呂と観光客

目が覚めると少し肌寒い。でも平気だ。テントから自転車で3分の距離にぽかぽかの温泉があるからだ。とりあえず朝ごはんの準備をする。ご飯のための水を汲むために外に出て見上げると青空が広がっている。どうりで朝冷えたわけだ。朝日で対岸の向こうに見える外輪山が燃えるように赤く見える。だんだん日が昇るにしたがって赤い部分が低くなってきた。ご飯を炊けるまでの時間ゆっくり景色を見ていると、少し贅沢な気持ちになり、暖かい紅茶を飲んだ。風がまったくなく、水面が鏡のようになっている。

朝ごはんを食べても、まだ少し寒かったので例の温泉に入りに行く。湯船の脇まで行くと、オートバイの旅人らしき男の人が温泉に入っていた。挨拶を交わし、服を脱いで温泉に入った。温度はすこし高く、冷え切った足や手の指先がじんじんとする。落ち着いてからライダーの彼と、どこから来たのか、これからどこへ行くのか、旅の話の花を咲かせていた。

遠くから大型バスのエンジン音が近づいてきた。こんな狭いところに場違いな感じで侵入してくる。そして僕らが入っている温泉、というか湯船の脇に止まった。僕らは湯船の中で、なんだなんだ?と見ていると、前の扉が開き、バスガイドが下りてきた。そしてガイドに続いて観光客もわらわらと降りてくる。僕らがうろたえている間に観光客は湯船を取り囲んだ。「こちらが和琴温泉でーす」。いきなりバスガイドが説明を始めたのだ!僕らはすっぽんぽんである。熱いお湯の中、出るわけにもいかず、ただひたすら下を向いて耐えていた。すると、観光客の一人のおばさんが、ぽんぽんと僕の肩をたたき、「気持ちいいかい?」と言った。「一緒にどうですか?」なんて冗談を言う余裕は僕らには無かった。

バスガイドは僕らの存在なんて無かったかのように観光客を引き連れて奥の遊歩道へ消えて行った。



朝、湖畔は静かだった。

すこしのぼせた身体でテントの撤収に取り掛かった。もう少しこのすばらしいキャンプ場にとどまっていたい気もしたが、先に進むことにする。

和琴半島から知床に向かうには、しばらく屈斜路湖沿いの道を走る。道はよく整備されていて非常に走りやすく、背の高い美しい森の中を進む。ときどき木々の隙間から屈斜路湖が見える。しばらく走ると巨大なクッシー(屈斜路湖にいると言われている怪獣)の置物があるお土産やさんに立ち寄った。そこは「砂湯」といって、湖畔の砂浜を掘ると、温泉が出てきて手掘りの露天風呂が出来るのだ。まあ、観光客が多いのでここで入浴する勇気は無いのだが。砂湯は冬場は白鳥が来ることで有名で、僕も冬に白鳥にパンの耳をあげたことがあるが(僕は数年後この地に住み着くことになるのだ)凍った湖面をペタペタ歩く白鳥の姿は、バレエで表現されるような高貴な鳥ではなく「アヒルと一緒やん」と思った記憶がある。

さて、屈斜路湖を離れ、景色は道東特有の牧草地の広がるのどかな景色を走る。知床に行くには屈斜路湖の外輪山の峠を越えなければならない。カラマツやトドマツの森を見ながら高度を上げる。頂上付近はうねうねとコーナーをいくつも曲がり、カーブの先で振り返ると、先ほどいた屈斜路湖が遠くに森の中で真っ青に見えた。

峠を越えると、基本的にオホーツク海までは下り坂である。樹海のような森の中をまっすぐなゆるい下り坂が突っ切る。うっそうとした森の中を重い荷物を載せた自転車は重量に任せてぐんぐん走り続ける。




川湯温泉。前の砂浜を掘ると温泉が出てくる


清里町方面の分岐を曲がってから里に下りてきたのか、農耕地になった。周りはビート(砂糖の原料になる大根みたいなカブ)畑が広がる。あまりに広い畑に圧倒されながら走っていると、ぽつんと人が作業しているのが見えた。こんな広い畑を一人で管理するのは大変だろうな、とずっとその人を見ていたら、向こうも気づいてこっちを見ていた。景色があまりに大きくて広く、通過するにも時間がかかるので、ずーと相手と見合わせることになる。そのまま無視するのもどうかと思い、とりあえず大きく手を振った。すると、向こうも振りかえしてくれた。

清里町に入ると、右手に巨大な斜里岳が見える。道東屈指の独立峰でとても美しい姿をしている。そして、美しい山のふもとに美しい農耕地が広がり、家がぽつぽつと見える景色は、まるで絵に描いたような光景だ。「右、斜里岳登山口」と書いてある看板を見つけた。あの美しい独立峰から眺める景色はさぞすばらしいだろうと、かなり登ってみたい衝動に駆られたが、時間が時間で、今からでは登山口に行くだけで日が暮れてしまう。本州ならまだしもヒグマの出る北海道、しかもヒグマ密度の高い道東の森の中では、恐ろしくてキャンプをする気にはならないのでやめておく。

清里町は小さな町で、5分ほど走るともう街を抜けてしまった。再び広い畑の中をえんえんまっすぐ走ると、斜里町という町が見えてきた。清里町と違い、少し賑やかだが、なんか「最果ての町」という感じがする。単なる通りすがりの旅人の僕からこの町を見れば、ここに住む人たちがここで普通の日常を送っていることが尊く思える。いったいどんな毎日を過ごしているのかすごく興味を引かれる。関西とは文化も気候も大きく異なる地では、想像もつかない毎日が送られているのではないかとさえ思う。まさかこの数年後、僕もここの住人の仲間入りすることになるなんて、夢にも思っていなかったのだが。

 


峠。振り返ると遠くに屈斜路湖が見える。これから知床に向かってずっと下り。

斜里の町を通過し、このまま知床半島の先、ウトロの町へ目指す。町を抜けてしばらく走ると左側にオホーツク海が見えてきた。オホーツク海の景色は北の海特有の暗く、寒く、厳しそうであり、和歌山などの南の海のそれとはかけ離れている。いま目の前の海はその名のとおり「地の果て」という感じである。ちなみに知床とはアイヌ語のシリエトクが語源で、地の果てという意味がある。

知床半島に入ると、急に海岸線は切り立った崖のようになり、道はその崖の下の海岸線の近くを走る。左側は近くに波打ち際があり、右側は切り立った崖がそびえ、いままで走ってきた畑の中の広々とした景色とは違い、なんとも窮屈な感じの道である。荒々しい波と断崖絶壁がぶつかり合う景色を見ていると、こんなところに人間が来てもいいのだろうか、という気持ちになる。

 


清里町の花畑。前には斜里だけの裾野が広がる。

亀岩という亀のような岩の横の急カーブを抜けるとウトロに入った。ウトロの町は段のようになっていて、海岸線には古くからの漁師町があり、坂を上った台地の上に巨大なホテルが立ち並んでいる。こんな地の果てのような寂しいところにいきなり俗っぽいホテルの乱立に少々うろたえたが、とりあえずキャンプ場についてほっとした。

キャンプ場は町のはずれにあり、静かな森の中にあった。お金を払い、とりあえずテントを張って荷物を中に放り込む。キャンプ場の外に行ってもホテルがあるだけであまり見所があるとは思えず、ここでゆっくり過ごすことにした。 (つづく)

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